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第六區

『第六区のあゆみ』

 創設から現在まで
  第六區が創設された時期は、享保3年(1718)いわゆる徳川吉宗の時代、大岡越前守が江戸府内に江戸町火消「いろは組」を創設した時に、大川(現在の隅田川)を渡った本所・深川地区に、大組の「南組・中組・北組」が創設された。「南組・中組・北組」はそれぞれ「深川南組」「深川本所中組」「本所北組」とも記録されている。「南組」は「一組」「二組」「三組」「四組」「六組」、「中組」は「五組」「七組」「八組」「九組」「十組」「十六組」、「北組」は「十一組」「十二組」「十三組」「十四組」「十五組」の「小組合」で構成されていました。また、受持区域は現在の江東区と墨田区です。
 明治5年(1872)に「大組」の「第六大區」となり、「一番組」は「二組」「三組」、「二番組」は「一組」「四組」「六組」、「三番組」は「五組」「七組」「八組」、「四番組」は「九組」「十組」「十五組」「十六組」、「五番組」は「十一組」「十二組」、「六番組」は「十三組」「十四組」がそれぞれを元組として、近隣の小組合同士が統合される形に変化した。
 その後、東京が発展し、人口が増加してゆくにつれて、周辺地域から七番組から十番組までが、昭和23年(1948)に第六區に加入した。しかし昭和四〇年代半ばに十番組が抜けて、九番組までの現在の体制になっている。
纒の形
 江戸時代に本所・深川地区に設置された16の小組合の纒は、見慣れないためかユニークな形をしているものが多い。明治になって複数の組合が統合されたため、以前の纒をそのまま使用する訳にもゆかず、新しい形の纒が新調された。
 また、昭和31年(1956)と昭和33年(1958)の幹部名簿によれば、この時期に九番組と十番組の纒が変化している。九番組の纒は江戸時代の「九組」の「重ね井筒」になり現在に継承されている。

大山阿夫利神社の石碑が歴史を語る
 大山には江戸時代から他の組と同様に、「大山講」として仲間同士で、あるいは地元の「講」の人々と共に、夏の間に通っている。そして「定宿」としての宿坊があったが、時の変化でなくなったため、「目黒」という宿坊に落ち着いて、今に到っている。
 第六區の諸先輩が全体(一番組〜六番組)で建立した石碑であるが、現在も大事に維持・保存している。これは良弁滝の前の道路沿いに「東京第六區消防組」として「昭和3戊辰年(1928)7月吉日建立」された石碑で、「昭和参年七月御大典記念」に建てられたものである。約120人の受持区域の町名と名前が刻まれているので、歴史的にも貴重な史跡と言える。


 また、この石碑の周囲の玉垣に「第六區七番組、八番組、九番組、十番組合併記念」と記され、昭和24年(1949)11月に追加工事がされているが、ここに第六區の歴史が凝縮されている。
 さらに、昭和40年頃、玉垣改築記念として計178名の名前が追記されている。
 ここに第六区の歴史が凝縮されている。

第六區として奉納した額
 深川不動尊・三峯神社・笠間稲荷・山倉大神・能勢妙見山東京別院など、ご縁のある各地の寺社にかなりのものを奉納をしてきたが、80年以上前の大正9年(1920)4月に奉納した「立野堀の明学院」(草加市)への「大額」は最近になって知るところとなった。「明学院」の額は、一番組が発起人で他の五組に協力を求めて納めたもので、合計116名と書記2名の名前が記されている。

世界遺産の日光山輪王寺に二つの額
 昭和44年(1969)5月に「奉納 三佛堂 墨東輪王講」として額を上げている。
 その後「護法天堂」に二つ目の額を、第六區全員で奉納した。これは日光が世界遺産になった前年の平成10年(1998)10月のことである。記念の扇子を作るので、貫首にお願いして「無我」という文字を揮毫して貰い、関係者に提供した。
 この額の奉納には、榎本総代を筆頭として、組合員の安全祈願、諸先輩への感謝の気持、伝統文化の継承等、第六區の団結の印になっている。
伝統文化の継承と保存
 木遣りの稽古は毎年3月から9月頃の間と富岡八幡宮・深川神明などのお祭りの前に、業平の公共施設で「北森」さんの指導で稽古をしている。
 梯子乗りは、記念会の行事がある出初式や5月の消防殉職者慰霊祭に合わせて、幹部全員の出席と共に組合員全員が参加して稽古をしている。また、纒の練習も一緒に行っている。

第六區の年間行事などについて
 節分は各寺社で行われるため、依頼に応じて各組が対応し、お彼岸には墓参会として、組毎に木遣りで諸先輩と先祖供養をしている。
 6月になると第四區が定例参拝している三峯神社には、第六區の額もあるので、参拝に同行している。7月は、大山阿夫利神社へ定例参拝をしている。年末はお飾り・門松作りなどを行って、ご縁を深めているが、年間を通して、祭と神輿などに関連する機会が多く、地域の各寺社・お店などとの強い連携がこの辺にもよく現れている。

成田山新勝寺との強い関係
 成田山新勝寺は江戸時代から出開帳などを何度も行っているが、深川永代寺八幡宮社地迄の道中に、北組・中組などの受持区域があり、大がかりな行列のため道中で間違いがないよう警護のために、他の組と共に持場の安全確保などに協力した。また、「講」により新勝寺には、文化・文政期から明治初期までに本所・深川の各組合からは計15回の参詣が記録されていて、奉納物も数多い。
 女坂には安政3年(1856)にできた「向島内陣十六講梵字講」の人々と共に、六番組の常夜灯と石碑・玉垣、十番組までの纒が描かれた石碑等が目立っている。
 また、額堂には一番組の12名のまねき、二番組の纒の模型を中心にした額(明治43
年5月)掲げられている。
 成田山東京別院である深川不動堂の庫裏が平成14年に落慶法要した時には、衝立を寄付し、ご縁は深く今も続いている。そして毎年5月17日には定例参拝をしている。

奉納物
 富岡八幡宮の「二の組」の鳥居、大島稲荷の「九組」の水盤がある。亀戸天神社に三番組の灯籠一対(大正2年9月)、回向院に五番組の木遣塚(昭和50年2月)、笠間稲荷に九番組の常夜灯一対(昭和2年5月)。
七番組の纒のモニュメント
 東京都からの要請により、鐘淵防災団地の公園に受持区域である七番組の纒が採用されたが、これは纒の精神が生かされている例と言える。
 以下のような解説がなされている。
 「纒(まとい)。それは江戸時代において、火事といえば即、纒といわれ、纒のもとに総力を結集して、消火活動を行い纒が火を消したとまでいわれていました。この公園は、大震火災時には、都民の安全を守る避難場所ともなっています。その安全をあらわすシンボルとして、ここに纒のモニュメントを建造しました。
                         昭和六十一年三月 東京都」
「平成22年5月25日 消防殉職者慰霊祭でのひとコマ」


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纒(まとい)をクリックすると
出初式の映像が見れます


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