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史実・火消

町火消≠誕生させた能吏・大岡忠相

 「○○訴訟、大岡裁き=vとか「××事件△△被告に大岡裁き=vとかいう大きな見出しを新聞でよく見かける。両者のいがみ合った中に智恵を働かせてうまくまとめる、あるいは刑事事件の被告の止むに止まれぬ情状を酌量し温情あふれる判決を下した、という際に用いられる表現である。
 町奉行としての役目を忠実に果たしつつも、大岡忠相は江戸庶民の心情を深く理解して、語り継がれるような名裁き≠次々に下した。
 落語や講談などのネタになりテレビドラマ化されてヒット、好評で遠山の金さん、こと遠山金四郎と並んで最も有名な町奉行として、現代の人々にも知られている。
 江戸時代の町奉行は、今でいうところの、高等裁判所・長官≠ナあったとも、東京都知事∞警視総監≠竍消防総監≠煬当アしていた。とくに忠相は、今日の消防団に連なる町火消≠誕生させた奉行として著しい功績をあげた。
 大岡越前守忠相は、幕府政治がようやくその草創期の状態から転換を迫られていた頃、延宝5年(1667)、二千七百石の旗本・大岡弥右衛門忠高の第四子として生まれた。忠高は目付、奈良奉行、御手先鉄砲頭などを歴任した人物である。しかし、四男に生まれた彼は、同族で千四百二十石の旗本・大岡忠真の家に養子にやられた。この忠真という人も、御手先鉄砲頭、駿府定番などに任ぜられた人物であった。

 家を継いでからの忠相は書院番、御徒頭、御使番、御目付、山田奉行、御普請奉行と、中級の旗本が歴任するような幕府の役職を順調に辿り、享保2年(1717)、町奉行に抜擢される。特に忠相は、四十一歳であった。この職は周知のとおり幕府三大奉行の一つであり、評定所(最高裁判所)の構成員でもある。従来、六十歳代の旗本が就くポストであって、忠相の就任は異例中の異例――それだけ彼が、能吏≠ナあったことを示している。
 忠相はまず、一つの町に三十人の火消を言いつけ、やがてはそれを組み合わせて、隅田川以西に「いろは四十八組」をつくり、隅田川以東にある本所・深川で十六組を組織した。
 それまでは、火事のある度に、町内の者が防火に出て働く、店火消≠ニいうものがあり、町内の五人組や老舗の主人達によって駆り出された店子たちの消防隊も、たびたびなる出動のなかで、次第に専業的な一団をつくり出していったのである。
 つまり、左官や鳶職、大工など屋根仕事、力仕事をする若い衆たちは、働きが違う。呉服屋や染物屋の丁稚、手代といった人たちとは、出動してからの働きが断然違っていた。彼等は、定火消たちにも劣らない働きをみせた。
 忠相はこの一隊に目をつけた。もはや大名火消や定火消だけでは手が足りなかったのだ。それに、九百余町を数えるに至った江戸の市域は、あまりにも広大であった。
 そうして町火消が活躍するなかで、数々の喧嘩≠ェ繰り広げられる――。
 これにも忠相は大岡裁き≠見せた。加賀鳶と定火消の喧嘩に際し、定火消仙石兵庫が老中に訴え出たところ、将軍吉宗が忠相に調査を命令、仙石家の横車が原因と判明して落着した。
 超エリート官僚であったにもかかわらず、常に江戸庶民の安寧を願いつつ、よく重責を果たした。
江戸庶民に愛された名奉行≠ナあった。(『江戸消防 創立三十周年記念誌』より)






新門辰五郎

新門辰五郎の江戸での活躍はよく知られていますが、
彼は京都や静岡でもかなりの仕事をしています。
そのような意外と知られていない側面なども紹介します。


1 辰五郎の生まれ
   新門辰五郎は、寛政9年(1797)、下谷山崎町のきせる煙管職人
  中村金八の子として生まれ、幼名を金太郎といった。文化元年(1804)、
  金太郎が12歳のときに、弟子の火の不始末が元で、火事を出してしま
  った。気の小さい父親は「世間に申し訳ない」と、燃えさかる炎の中
  に身を投げてしまう。

  この日の出来事は金太郎に「火事は父の仇」と心の奥底に深く刻み込ませることになり、そしてまた金太郎を“火消しの世界”に入らせるきっかけになったのである。
  お決まりのように、残された者は生活苦にあえぐことになる。母親は途方にくれ、湯島天神前の鳶職“わ組”の小頭である叔父の仙三郎に、金太郎の身の振り方を相談した。叔父は金太郎の根性を見込み、18歳になったときに浅草十番組“を組”の組頭・町田に頼みこみ、火消しにすることにした。
  頼まれた仁右衛門の方も、三年前に金太郎と同じ年頃の倅をなくしたばかりで快く引受けた。名前を倅の名前であった“辰五郎”に改めさせ、おのれの子供同然に目をかけた。

 2 男をあげた“勝手にしやがれ!”
   文政4年(1821)3月28日、浅草花川戸の火事がおこる。これが、“火消・辰五郎”の名をあげることになった。辰五郎が現場に到着、消し口を取って、“を組”の纒をあげたところへ、立花家のお抱え火消が押しかけ、“を組”の纒を倒してしまった。これを見た辰五郎は黙っていられず、組の纒を打ちおろして立花家お抱え火消の纒持ちを、纒もろとも転落させてしまった。あわや“を組”と“お抱火消”の喧嘩になろうとしたところへ割って入る組頭の仁右衛門――。
   どうにかその場は双方手を引くことになったが、おさまらないのは立花家。「下手人を出せ!」と申し入れてきた。辰五郎はこれを聞きつけ、単身勇躍立花家に乗り込み、「勝手にしやがれ!」の名科白。玄関に堂々、大胡座をかいての啖呵を切った。気勢に圧倒された立花将監はどうすることもできず、辰五郎はその日のうちに帰宅したという。
   この出来事は、またたく間に町火消仲間の知れるところとなった。武家を相手に一歩も退かぬ町方の意地はかっさいを浴び、辰五郎は男をあげた。仁右衛門親方も日頃から可愛がっていただけに、辰五郎に惚れ込み、一人娘のぬいと養子縁組させ、町田家の跡目を相続させることにした。

 3 「新門」の命名由来
   辰五郎が“新門”を名乗るようになったのは、実はこの「浅草」に由来する。上野大慈院の義寛僧正が辰五郎の男伊達に惚込み、浅草寺界隈の掃除方(取締方)を依頼した。辰五郎はその責務を立派に果たし、浅草に絶対の勢力を持つまでになった。そこで僧正は、一橋慶喜に取りなして辰五郎をお近付きにさせた。
   慶喜も辰五郎を大いに気に入り、舜仁準后が浅草に隠居し新しく仏門を開いた折、辰五郎に“新門”の衛士を仰付けたことから、“新門”と名乗るようになった。“新門辰五郎”になってからは、その名声が江戸の隅々まで知れわたり、“を組”の火消213人のほか、彼の息のかかった子分は2,000人に及んだといわれている。

 4“を組”と“有馬家”の喧嘩
   弘化2年(1845)、青山の大火。江戸中の火消が総出動するなか、“を組”も有馬家の並びの町家に消し口を取った。火消作業をしているところへ有馬家の“お抱火消”が押しよせ、“を組”の纒を屋根から引き落としてしまったからさあ大変。これが発端となって火事そっちのけの大喧嘩が始まった。
  辰五郎が入る間もなく、死傷者25人を出し、そのため奉行所にひかれてしまった。
   辰五郎は子分の不始末の一切の責任をとり入牢したが、厳重な吟味の結果、有馬家側の非が認められて、死罪は免れ「江戸払い」の沙汰が下る。しかし、その後も江戸に居たため、ふたたび捕えられて、佃島牢獄につながれてしまった。

 5 佃島牢獄での働き
   ところが、翌弘化3年(1846)、小石川馬場の火事が大火となって猛火が佃島牢獄に迫ったため、「牢払い」の御慈悲が出た。他の科人たちは逸早く避難したものの、辰五郎は牢仲間の小金井の小次郎という侠客と共に牢に残り、火の粉を浴びつつも油倉庫に「目塗り」を施し類焼をくいとめた。町奉行から「さすが火消しの頭」とお褒めの言葉があり、二人は赦免された。一度は子分の責任を一身に受けながら、その不運をもはねのけてしまったことは、辰五郎がひととおりの男ではないことを物語っている。

 6 辰五郎の侠客振り
   「辰五郎は、始終柔和な顔をした小男であったが、現存せる老人は誰でもよくいうが、肝っ玉は、四斗ダルほども大きかった。」
   「辰五郎の侠客振りは、比較的穏当な方で、なるべく喧嘩をせぬよう、人間を殺さないよう、またなるべく故なくして、上司に抗わないよう心掛けていた。」
   「辰五郎は罪には服しないが、刑にはおとなしく服して、よく獄則を守った。」
   「江戸の町火消になるには、やかましい身元証明を要するのであるが、新門辰五郎にかぎり、出獄人でも、剽悍無頼の徒でも、頼ってくる者は誰でも引受けて、世話してやったから、辰五郎輩下の消防夫ほど、乱暴をはたらくのはなかった。」『江戸から東京へ』(第三巻 矢田挿雲著 中央公論社)より

 7 被官稲荷社を創建
   浅草神社のすぐ裏手にこの稲荷社はあるが、創建の由来が台東区作成の案内板に記されており、この稲荷を辰五郎が勧請し、創建したと明記されている。
   「安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国の伏見稲荷に祈願した。
  その効果があって病気が全快。同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが被官は「出世」と解せば良いという。(中略)
   社殿は一間社流れ造り、杉皮ぶき。創建以来のもの。間口約1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護しているのが珍しい。覆屋は大正期の建築であろう。」
  また、安政2年(1855)9月に鳥居を建立したが、平成になって再建されている。




8 京都行きの日は神田橋御門外広場に勢揃いした
   『藤岡屋日記』第13巻(鈴木棠三・小池章太郎編 三一書房)には慶応元年の話が掲載されている。
   「新門頭は去子年八月廿一日、江戸立、鳶二百五十人、大工も連行候由、出立之日神田橋御門外広場ニ而、勢揃致し、人足之紺半天ニ仁印襟ニ新門と書、右揃を着し、旭の丸之幟を立、繰出し候勢ひ、諸人の眼を驚し候よし、新門倅松五郎は同九月初メ、鳶六十人召連、跡より出立致候。
   神文 新門をしたので先へたつ五郎」

 9 将軍家御雇京都消防方
   「文久三年(1863)十二月、慶喜が禁裏御守衛兼摂海防御総督として西上するに際し、辰五郎も歩兵屯所御用達として上京。祇園町の火事に、火が祇園神社の拝殿に移るのを消し止めたり、大阪玉造の大賭場で挙げられた顔役米清の赦免に力を貸したりで、男を揚げていたが、程なく将軍家茂の他界により慶喜が将軍職を襲ぐや、一橋家に縁故のあるものは素晴しい勢いとなり、辰五郎も将軍家御雇京都消防方となり、破格を以って御目見え(注・将軍直参の士の中で将軍にまみえる資格のあるもの)以上の格に列せられ、御作事奉行の手に属し、二条城修繕普請に従事、次いで大阪城内廊下縁の下の地雷火の破裂には子分を指図して、廊下に積んであった数百の酒樽の鏡を打破って難なく消し止め、ますます将軍の信用を受け、京・大阪での新門はまさに飛ぶ鳥落すほどの大そうな羽振り、この事が後年官軍に睨まれ、江戸の仕事師を廃そうとかかった原因だという。」『東京消防』昭和53年4月号(「江戸・明治火消実録 消防譚拾遺O」神保侃司著 東京消防庁編)より

 10 京都の人々を驚かした梯子乗り
   『藤岡屋日記』第12巻(鈴木棠三・小池章太郎編 三一書房)には、次のような記載があり、京都の大群集の中で梯子乗りをやって、驚かせたようである。
   「元治元子年 今度、一橋様ニ而御呼寄ニ相成候消防人足二百人程之由、新門辰五郎頭取共手札持参、御見廻役江も罷出候名前、左之通。一橋殿消防人足方御用達 新門辰五郎(中略)
   右八月廿六日出初メ有之、見物大群集致し、江戸表火消人足之通ニ声を上ゲ、余程の多人数ニ而、洛中の眼を驚し申候。」現在では海外や熊本、大阪、金沢などのイベントに江戸消防記念会の会員が参加して拍手喝采を浴びたり、テレビ放映されるので知っている人は少なくないが、当時はこのようなことは非常に珍しかったので、京都の人々を梯子乗りの演技でアッと言わせたのだと思う。

  来迎寺
  この寺は二条城の近くにあり、元治元年(1864)より慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い直前までの間に、京都で亡くなった部下の墓と供養碑を建てている。この寺は目立つところではないが、現在でも新門を継ぐ杉林家が大事に守っている。


11 大金扇(だいきんせん)の馬印を大坂城から持出す
   辰五郎は「慶喜公には大変な気に入りで、鳥羽伏見の頃にはやはりあっちへついて行っていた。慶喜公が開陽艦へ引き上げの時に、大坂城中へたいきんせん大金扇のうまじるし馬印を忘れて出た。辰五郎は引っ返してこれを持ち返ると、もう船は出ている。それッというので子分二十幾名をつれ、この馬印を押し立てて一気に東海道を駆け下った。」『戊辰物語』(岩波文庫 東京日々新聞社社会部編)より

 12 勝海舟との関係
   西郷隆盛と勝海舟との話合いがまとまらず、官軍が江戸に攻めてきたら、江戸を火消の手で、火の海にしてしまう手筈まで整えていた。勝海舟がかなりのお金をばらまいている。
   また、勝海舟の新門辰五郎への評価は次のように非常に高い。
   「おれもこれまでいろいろな人に近づきになったが、新門の辰(五郎)、薬罐の八、幇間の君大夫、八百松の松、松源の婆、こういう連中はおれの一番の友だちになった。踊りの師匠の花柳なども、そのころ知ったのだ。」
   「西郷との談判が不調に終って、どうしても戦争となった時の策として、海舟の用意したことは三つあった。一つは慶喜亡命策である。第二は、焦土戦術で、江戸を焼き払ってしまう策である。それはナポレオンに侵攻されたロシアがモスコーを焦土と化して敵を苦しめたのに学んだのである。そのために海舟はあらかじめ都下無頼の徒、鳶職、火消組の親分、博徒の親方、運送の親方、非人の頭など、主だったもの三十五、六名を組織して、合図があった直ちに動けるようにしてあった。将軍慶喜の妾にお咲という女がいたが、これの父親が浅草の新門辰五郎という江戸の町火消のボスで、人物も立派で江戸のそういう連中から尊敬されていた。新門の親分が大の慶喜ファンであるから、この親分のつてで他の親分にも渡りをつけ、海舟は四つ手駕籠に乗って、一々、それらの頭の家へ挨拶廻りして手を打った。何しろ安房守さまが直々に頼みに来たのであるから、彼らは感激した。それぞれに莫大な金も握らした。」
  『氷川清話 付勝海舟伝』(勝海舟・勝部真長編角川文庫)より

 13 当時の鳶頭の評価
   「辰五郎は色の白い小ぶとりの丈(せい)の高くない男だが、子分三千を擁して歳すでに七十に近く、角切(すみき)り輪つなぎの広袖の下から緋だの白だの黄色だのの、五色の縮緬の襦袢の袖を重ね見せて大したものであった。苗字帯刀御免、新門をアラカドと読ませた。」(当時下谷わ組の頭、元黒の三坊こと鈴木三治郎翁(八一歳)談)『戊辰物語』(岩波文庫 東京日々新聞社社会部編)より

 14 静岡市常磐町・常光寺の先祖累代の墓と信仰心
   新門辰五郎子方中(子分たち)からとして「先祖累代墓」が慶応4年(1868)戊辰仲秋下旬に建立されている。この墓の解説として、静岡市が建てた案内板が墓のすぐ脇にあり、以下のように説明している。
   「駿府で謹慎生活を送る徳川慶喜の警護のため新門辰五郎は一門を引連れて駿府に赴き、慶喜公謹慎の宝台院に近い常光寺を宿所とした。新門辰五郎は江戸町火消の組織にならって静岡町火消の組織をつくったり資金調達のため寺町に常設の芝居小屋を建てるなど、江戸の町人文化をもたらした」
   また、常光寺の資料には墓建立の背景が記されている。「多数の子分を失ったことへの悔恨と追慕の念禁じ難いものがあったであろう。辰五郎はその年の三月に、長年連れ添った妻(ぬい)を亡くしている。当寺の言い伝えによると、この墓には髪の毛が納められているという。戦場では遺体を収容することができず、咄嗟の場ではもとどり髻を切ってくるという。新門一門にとってはこの髻を早急に埋葬しなければならなかった」
   また、各地の神社仏閣に奉納・建立されている慰霊碑・墓などを見るほどに、彼の妻や部下を想う気持が強く感じられる。以上に紹介したもの以外にも、北野天満宮に石灯籠、古川薬師(大田区)に駒寄柱、上野東照宮に水盤、高野山(和歌山県)に辰五郎自身の墓など彼が奉納・建立したものがある。

 15 晩年の辰五郎
   「明治元年五月十五日の朝まだき、上野東叡山に砲声が轟きはじめるや、辰五郎のひきいる浅草十番組、を組の総勢二百八十余名は彰義隊と官軍決戦のさ中に分け入って、東叡山を兵火からまもらんものと必死の消火につとめたが、官軍の砲撃は物凄く、その日の夕刻、敗走する彰義隊とともに山を下ったのである。この砲火のために寛永寺の本坊をはじめ吉祥閣など由緒ある東叡山の数々の建物は灰燼に帰してしまった。このとき、辰五郎は七十一歳であった。(中略)辰五郎は十五代将軍徳川慶喜に殊のほか可愛がられ、火消絆天のまま江戸城内の中奥まで出入をゆるされていたほどだったが、大政奉還によって江戸を去り、水戸へ落ちのびていく慶喜公を陰ながら府外まで見送った辰五郎はすでに心を決していたのだ。官軍を向こうに廻して必死に東叡山をまもったのも、慶喜公の恩顧に報ゆる辰五郎の最後の恩返しだったに違いない。しかし、その甲斐もなく徳川家の霊廟東叡山は砲火に荒らされてしまった。
   これを最後に辰五郎は火消役から身を引き、自ら謹慎して静かな余生を送り、明治八年九月十七日、浅草うまみち馬道の自宅で七十八歳の波乱の多い生涯を終わったのである。
  『消防100年史』(藤口透吾・小鯖英一共著 創思社)より


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