『第一区のあゆみ』

 第一区の位置
  第一区は東は隅田川を境にして対岸は第六区であり、西側は東京駅
 から丸の内まで延び、南端は月島、晴海を経て東京湾に達する。北辺
 は神田川迄である。その地域は首都の中心部を占めている。一番組
 (よ組)は千代田区の行政地区で、二番組(い組)から十番組(千組)
 までの九組は中央区に属する。
  明治5年に現在の組織となった。それ以前は、一番組から四番組と
 七番組を除いて十番組まで8組あった、元一番組の中には、いよはに
 万と5組あり、元二番組は、ろせもめす百千と7組から編成されてい
 た。その中、万組とめ組は他の大組に編入され、残ったその2組が合
 体して第一区となった。


 各組合と氏神
  町火消は危険と背中合せの職業であるから、身の安全ひいては組合安全の祈願のため、特
 別の信仰心を抱き、仲間同志の揃いぶみでの諸国の神社・仏閣への参拝は、年中行事ともな
 っている。産土神の祭礼の時は、御神酒所つくり、軒花提灯取付、神輿格納の御仮屋建設の
 ため、七面八臂の活躍で町の花形となっている。受持区域には江戸開府以前から創建された
 神社が多い、一番組(よ組)、二番組(い組)、七番組(に組)、八番組(は組)の四組は
 神田明神が氏神である。一番組には他に一部柳森神社の氏子町内がある。三番組(ろ組)、
 四番組(せ組)、五番組(も組)、九番組(百組)の四組は山王日枝神社が氏神となってい
 る。
  関東大震災後二番組にあった魚河岸は、六番組(す組)の持場である築地に移転した。
 受持地域が海に面しているところから、水神様、波除神社、佃神社、鉄砲洲稲荷などと水に
 ちなんだ祭神が多い。八番組には、椙森神社、小網神社、銀杏八幡、氏子町内はないが、別
 格として、水天宮という神社がある。十番組(千組)は川を隔てた深川八幡宮が氏神である。

 木遣りの会とその奉納物と由来
  神社仏閣崇拝という観点から、当然業界の先覚たちによって残された奉納物もその数多岐に
 亘っている。例をとると、まず、一番組多二事野田重五郎が講元で、睦の木遣りの会を結成し、
 東高野山長命寺に納めた木遣地蔵尊が安置されている六角堂、並びに石碑は、地蔵講と称した
 明治の中頃造られた第一区最初の木遣会の納めたものである。次に御殿場東岳院輿樗地蔵尊に、
 昭和2年(1927)建立奉納の青銅製真棒の記念碑(木遣塚)も、未だ健在である。少し遅れて、
 十番組濱町事村田竹次郎が声寿会を興した。その功績を顕彰した記念碑が新川の田宮神社に建
 てられている。
  その後、明治末期に一番組の佐柄木町事小川幸吉が一声会という木遣りの睦会を結成した。
 その石碑は大山阿夫利神社宿坊亀井の敷地内、良辨の滝の上手に、一声会の記念碑として残さ
 れている。

 その他の奉納物
  第一区の頭取中としては、佐奈田霊社に奉納額、同じく筒先中では目黒不動尊への青銅製灯
 篭が、そして川崎大師には長提灯一対がそれぞれ納められている。
  その時代は木遣りといえば、日常生活と切り離すことができなかったので町火消はほとんど
 が精通していたようである。三囲神社の木遣塚、川崎大師の消防記念碑にも、第一区の錚々た
 る顔振れが銘記されている。

 木遣りについて
  木遣りの伝統は、遥か寛政年間に遡る。神田よ組に喜六、弥六の二人の木遣りの名人がいた。
 この二人は江戸木遣の始祖と言われている。
  また天保9年(1838)、江戸城西の丸火災で焼け落ちた本丸の修復工事に町火消が始めて城
 内に入って活躍した。その功績が認められて、普請の際の地形を命じられた。その時の書上に
 は、せ組頭取初五郎、長五郎、虎松などの名が見える。その折、前将軍家斉は、大の木遣り好
 きで、ひそかに鳶の木遣りを聞き入ったという話が伝わっている。
  その後数多の名人、上手の木遣師を輩出したが、その尊名は、練馬区石神井の東高野山にあ
 る木遣地蔵尊六角堂の中に、第一区木遣歴記と共に額になって納められている。祖師として、
 ろ組檜物町、は組大坂町とあり以下29名の名が連記されている。昭和26年その頃、第一区総代
 五番組組頭竹本金太郎が七番組組頭つち三事古川三右衛門の発案を取り入れて、先にあった三
 つの木遣りの会、即ち、一声会、声寿会、地蔵講、の一字ずつを合せ「一寿地会」として単一
 化されて、再発足した。此の本堂修復は昭和46年(1971)5月25日のことで、時の第一区の組
 頭中の名も記されている。話はもどるが、昭和26年(1951)、四番組所属であった鞘町事松田
 久吉を始めとする数名の木遣師たちが、『木遣定本』の編纂に着手した。当時としては、画期
 的な発想である。
  

 戦後からの出来事
  戦後いち早く復活し世の中は落ち着き、あちこちで槌音高く建前に明け暮れる日々となった。
 まだ記念会が結成される前、昭和21年(1946)に早くも、血が騒いだ江戸っ子達に依って、日
 本橋上に神輿が登場した。翌22年には神田地区で復興祭が華々しく挙行された。すでに立ち上
 がった町鳶がそれぞれ関与していた。第一区に限らず東京中の鳶の毎日は、建設ブームに追わ
 れる好景気が続いたが、何といっても鳶にとって、暮のお飾りは生活の目玉であって、重要行
 事の一つだ。その矢先に女性国会議員らによって惹起した、門松廃止運動であった。昭和29年
 (1954)の事である。先に紹介した竹本金太郎を始めとして、各組頭が交渉に当り、論戦を交
 わした結果、日本の伝統文化である門松の必要性が再認識された。以来歳末のお飾りは今も続
 けられている。

 生活・文化
  火消しの生活上欠かせないものに、広義に考えて纒がある。この製作に当ったのは、大岡越前
 守指名で、神田堅大工町の角の纒屋石田次郎右衛門である。当時江戸中一軒だけで江戸四十八組
 の纒の製作を一手に請負っていた。次に火消自身密接な関係がある、印伴纒を扱う紺屋が箱崎町
 二丁目にあった。磯屋吉兵衛(通称磯吉)といった。いろは組時代の火消の伴纒も主にここで誂
 た。この二軒は江戸東京の火消鳶の歴史上欠くことの出来ない存在であった。又、江戸の地誌
 『江戸名所図会』『武江年表』など貴重な著作を残した、神田の文化人斎藤月岑は、神田雉子町
 (現司町)の名主で、常々町火消に興味を示し、天保15年(1844)江戸城本丸の火災の折、三重
 櫓の最上層の屋根上に整列した、火消鳶と纒を立てての火掛りを遠望して、自らのスケッチした
 珍しい絵が残されている。
 

 現代の行事、後継者としての覚悟
  現在、記念会の三種の神器と称される、木遣り、纒、梯子乗りの保存は、我々が遠い祖先から
 の遺産で永久に死守継承してゆく事は我々に課せられた義務であると思う。現在保存継承してい
 る年間恒例行事では、新年大盃の儀、第一区墓参会(春秋の彼岸に実施)がある。また三年に一
 度廻って来る大山阿夫利神社参拝、御殿場輿樗地蔵参拝、東高野山長命寺参拝がある。
  さらに、新春恒例の行事になっているが、1月4日は日本橋三越・島屋が新春を寿ぐ初売り
 に合わせて、新年の挨拶として、木遣り・纒振り・梯子乗りを披露している。

 

 「平成22年5月25日 消防殉職者慰霊祭でのひとコマ」
  
  
  

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